2013年9月28日土曜日

歩けるという可能性ー続編

今日は、ある方からコメントをいただいたので、それに関して答えていこうと思います。まずは、コメントをくださった方、ブログを読んでくださり、コメントまでくださり本当にありがとうございます。また、9月中にコメントをくださった方、返事を書いていたのに公開するのを忘れていました。コメントの返事が遅れたこと、お詫び申し上げます。今後気をつけますので、これに懲りずに、コメントくださるとうれしいです。
 前に書いたのは、こちら。「歩けるという可能性
 コメントでは、この「歩けるという可能性」に関して、具体的な子どもの姿やそこから引出されてくる人間的な行為のちがいを知りたいということでした。そこで、少しですが、書いてみようと思います。
 少しその前に私の持っていたクラスの話をもう一度しておくと、5年間車いすを使用している生徒たちの担任をしていたのですが、現在は、歩行可能な生徒の担任をしています。
歩けるということは、自分の欲しいもののところへ行けるということ
まずは、何と言ってもこれが大きいと思います。私が受け持っていた車いすを利用した生徒たちは、1名を除いて自分で車いすを動かすことができません。他の人が車いすを動かさない限り、その子たちはその場所にいることになります。その上、この子たちは、言葉を話すことができません。発語はあったので、数名の子はときどき大きな声で教えてくれることはありますが、それでも、誰かの手を借りないとその場にいることになります。
この点、今のクラスの子どもたちは、好きなところに行きます。音楽が聞きたいときは、CDプレーヤーのある場所にいきますし、ブランコに乗りたいときもブランコのそばに行きます。絵や写真を使ってコミュニケーションをとる段階に至っていない子どもでも、歩けることによって自分のしたいこと、欲求を伝えることができます。
前のクラスの生徒に4年かかって、車いすを動かす方法を教えました。彼女は、右手なら動かせたので、その手で少しずつ動かす方法を教えます。今では、多少なりとも自分の意志で車いすを動かせるようになりました。
現在のクラスの子どもたちは、勝手にどこかに行ってしまう可能性もあるので、目が離せないのは前の生徒たちと変わらないのですが、勝手に動いてくれるからこそ、言葉を話さない生徒たちが何を考えているのかよくわかり、とても興味深いです。
幼児期に力を入れることは何かといわれたら、やはり歩行が可能になるように特訓をしていくことであると思います。体が大きくなり、身長が伸びると体の重心がかわりバランスがとりにくくなるので、その前にできることならば、歩行を特訓しておくとよいといつも思います。
歩けるということは、コミュニケーションの機会を自分で持てるということ
最初のにつながる部分が多いのですが、歩けると生徒たちが自分から私のところにきてコミュニケーションを持ちます。そばにきて、にこっと笑って手を握ったり、ハグをしてくれたりします。車いすを利用している生徒たちは、床で自由に動けるときでも、こういった自分から人によっていき、コミュニケーションをとるということが少ないように思います。慣れていないせいでしょうか。
自閉症に見られるクレーン現象も、歩ける生徒たちには頻繁に行いますが、同じ自閉症でも車いすを利用している生徒はこれが少ないように思います。車いすに座っているということが、コミュニケーションを受動的にさせる何かがあるように思います。
クラスを変わって、男の子3人のなのですが、彼らが一緒に散歩するときになどにさっと手を握ってくることがあり、はっとするときがあります。今までの5年間ではそういう行為がなかったのです。最後の数ヶ月、4年間関わってきた車いすを利用した男の子が私の手を握ってくれてうれしくて涙がでました。そういう行為が自発的におこるということが、彼の大きな成長であったと思います。
歩けることにより、コミュニケーションの機会を自分で持つことができ、自発的なコミュニケーションをすることを覚えるだろうと思います。車いすに座って、「先生のところに行きたい」といくら思ってもかなわなければ、こどもはそう思わなくなり、違う方法でコミュニケーションをとることを覚えるのだろうと思います。

歩けるということは、身体機能の維持に大きな広がりが持てるということ
歩けるということは、立つことができるということであり、これによって、身体能力がかなり高まります。生きていくということは、この身体的な機能をいかにのばし、保持していくかが大きな鍵となります。運動をして体力をつけたり、筋肉をつけたりすることは、普通の人の場合は、普通に行っていることなのですが、障がいを持った子どもたちの場合は、意図的に行う必要があります。
車いすを利用している子どもたちの多くは、自分でこういった身体的機能維持のための日常的な運動ができない場合が多く、他の人に手を借りて行うことなります。また、1日の大半を車いすに座って生活することになるため、背骨などの骨や臓器など、「座り続ける」ことによって大きな影響を受けます。
スウェーデンは、福祉機器が発達しており、様々な訓練用の補助器具がありますが、それでも、誰かの手を借りない限りはできません。それに、それを行う時間を決めるのも、本人ではなく他の誰かです。
歩行可能な子どもは身体機能の維持のための活動がいろいろと選べ、しかも嫌なときは「動かない」ということで意思を明確に示すことができます。田舎にあるうちの学校では、スウェーデンらしく、森の中で体育活動を行うことがあります。森の中は、バランスをうまくとったり、木の枝をくぐったり、またいだりと、歩くだけなのにいろんな身体的な活動ができるのです。でも、この森へ行くのをいやがる生徒がいます。森の入り口で、くるっと反対向いて歩いていきます。こういうことができるのも歩行可能な生徒ならではです。ついでに付け足すと長い道を歩くのがいやなときは、勝手に近道を選んでいったりします。
歩けるということは、行動範囲が広がるということ
歩けるということは、行動範囲が広がっていいなあと思います。車いすの場合は、明らかに車いすを押す人の体力によって行動範囲が左右されます。冬になり雪がふると車いすでの外出は困難になります。坂のおおい学校周辺では、車いす利用の生徒の年齢があがると車いすで出かけられる範囲が極端に狭まります。
この点、歩ける生徒たちは、バスや電車を利用していろんなところに出かけられます。車いすでバスに乗るのはスウェーデンでも容易ではありません。乗車拒否されたという話を時々ニュースで見かけます。車いすとベビーカー用の場所がありますが、たいした広さではなく、乗れるかどうかわからないバスを利用する計画を学校ではたてません。学校からの遠足で車いす用のバスを利用すると料金が大変高く、年間数回しか計画を立てられません。
こういったところも歩けるというのは大きな可能性を見いだすものであると思います。


思いついたことを書いてみました。多少なりとも参考になればと思います。もしも、さらに質問などあれば、ぜひ、またコメントをくださいね。では、よい日曜日を!